結婚と同時に同居でした。
3LDK水回り全部一緒の完全同居。
(今では考えられません)
嫁ぎ先一家に私がちょこんと入った感じです。
当然キッチンは義母のテリトリーでしたが、夕飯は一緒に作っていました。
お風呂のお湯をもったいないからと3日に1回しか変えないことや、タバコも3人とも家の中で吸っていましたし、何よりプライバシーが全くない。
常に主導権は義父母にあったように感じていて、それがものすごくストレスになったのは娘を産んでからでした。
本当に、義母が嫌でたまらなくて、意地悪されたりなど何にもなかったのに、ご飯も嫌な顔ひとつ見せずに準備してくれたりしていたのに、嫌悪感が凄かったです。一度だけ喧嘩したことがあります。
パパは出産後に1ヶ月ほどの長期出張になり、私は寂しかったのだと思います。当時はその感情すら感じることができませんでしたけど。
赤ちゃんのちょっとしたことや相談ではないけど話したい時など誰かに聞いて欲しかった。説教とか改善策とかそんなのいらなくてただただ聞いて頷いてほしかったです。
そんなこんなで嫌な気持ち寂しい気持ちに蓋をして過ごしていました。
娘をかわいがってくれて嬉しいという気持ちは微塵も起きず、あれしないでこれしないでと拒否することも口にできず、私は諦めました。
同居したのは私、私が我慢すればいいんだ、ご飯も作ってもらって我慢するのが当たり前、と。
娘に接する時も常に誰かの視線を気にして、接し方にも距離が出て、ただただ可愛がるということはなかった。放っておいても育っていくと、私は育児放棄というネグレクトに近いところにいたのではと感じます。
当時はそんなことは思わなかったし、普通に育てていると思っていましたが、今となってはそうだったのかなと。
そういう微妙な距離感が、娘との愛着関係にも影響したのではないでしょうか。
娘に対して、常に義父母の目線を気にしていました。その蓄積が少しずつ溜まって、それを感じていた娘も、言いたいことを言えない、我慢しなければならない、ことを私から自然と覚えていったのではないかと思います。もちろんそれが全てではないけれど、かけらではあったのでしょう。
娘も、私さえ我慢すればいいんだ、という気持ちが溜まりに溜まって、でも吐き出すこともできず、そうするのがいいと思っていたのにモヤモヤする、学校もレベル以上のところに入学してしまった、本当は嫌なのに後戻りできない、そんな鬱憤を晴らすために、ママもダイエットしてるし私もやろう!なんだか痩せたら良いことありそうだしお友達もみんな細いし…、それでますます自分の気持ちを見失っていったのだと思います。きっと我慢しているという自覚すらなかったのかなって。
私は娘に良い未来を示してあげることができませんでした。
いつも不満を思っていたし、自分の気持ちを表すよりも我慢する方がうまく行くと思っていました。人の言うことに従っていれば間違い無いと。間違えても私のせいじゃ無い、と。
娘はよく、私は結婚したくない、子どももきらいだし。と言っていましたが、こんな母から幸せな未来像を掴めるわけないよね…。